北海道十勝 ばんえい競馬
先住民族、アイヌが住んでいる北海道に対し、明治政府は本格的に開拓政策を推し進めました。本州の各地方から、開拓者達は北海道へ渡り、原野を切り拓いていきました。そのパートナーとして、馬は欠かせない存在でした。木を倒し、運び、田を耕し、馬は開拓者と苦楽を共にしました。
高さ約2メートル、体重約1トンの馬が数百キロの重りを乗せて砂の直線、坂の障害を走る「ばんえい競馬」は北海道帯広市にて行われています。ばんえい競馬の競馬場の横には厩舎村があり、30の厩舎が軒を連ねています。そして500頭をこえる馬達がここで訓練を受け生活しています。
その中に戸田富治氏の愛馬がいました。齢80歳(取材時)の彼は長年馬の生産牧場を営み、ばんえい競馬に競走馬を輩出し続けてきました。馬の生産から引退を決意している彼の愛馬は、これからばんえい競馬に挑戦します。しかしレースに出るには能力テストを受けねばなりません。
多くの馬がそうであるように、この馬もまた、生まれた時からレースに出るか、食肉になるか、二つに一つの運命を背負っていたのでした。
戸田氏は、馬が移動手段であり、仕事の相棒であり、家族であった時代に思いを馳せ「馬は人間よりも価値があった」と言います。生活スタイルが急激に変わった現代に、彼は馬と人間の関わりの名残を、ばんえい競馬での営みに見ていました。彼の愛馬は命を左右するレースに出走します。
岩手県遠野 地駄引き(じだびき)
東北地方は本州屈指の馬産地です。中でも岩手県遠野は交通の要、宿場町として栄えてきました。街道には馬が行き交い、曲り家と呼ばれる昔ながらの住居では、日光が一番当たる南向きの玄関に馬小屋があり、馬と人間は一つ屋根の下で生活していました。馬は家族の一員であり、財産です。しかしながら、ここも例に漏れず高度経済成長期以降、馬は減少し、道には車が走るようになります。
見方芳勝氏は1960年代から馬と共に山へ入り、伐採された木材(丸太)を運ぶ仕事「地駄引き」をしてきました。現代では、ほとんどの場合、木材はトラックに積んで運んでいきます。その変化が示すものは「山にトラックが入れる道路を敷いた」ということです。樹木の適度な伐採は森林の保護に繋がります。しかし、道路を敷くということは山の水脈を寸断し、生態系に影響を及ぼすということです。
やはり、見方氏をはじめ多くの人々が従事していた地駄引きの仕事も、時代と共に減少しました。綱一本で馬と呼吸を合わせ、険しい山の間を縫うように木材を運ぶその姿は、人馬一体の様相です。
そして本作では馬と人間の娘の悲恋の民話を起源とする神様「オシラサマ」にもアプローチしています。オシラサマが示すものは馬と人間がいかに近しかったか、またかつての吾々が当たり前のように持っていた、自然に対する畏敬の念です。
北海道穂別 馬喰(ばくろう)の祭典ばん馬
帯広市にて行われる「ばんえい競馬」はあくまで公営のレースであり、その起源は開拓農家同士の馬の力比べでした。それが地区単位の競技に発展し、やがてばんえい競馬の形になっていきます。北海道をはじめ東北地方では「祭典ばん馬」や「草ばん馬」と呼ばれるばんえい競馬の地区レース版が、今も40箇所以上で行われています。それらは各地の有志が開催し、原型の馬の力比べに極めて近い形だと言えます。
北海道むかわ町穂別に住む多村稔氏は馬喰(ばくろう、馬の売買)で生計を立てています。多くの馬を飼い、適時転売することによって日々の糧を得ます。数年前まではばんえい競馬に出すための馬(高さ2メートルほどの大きい馬、重種馬)を育てていたそうですが、今は大半がポニー(人間の子供くらいの高さの馬)です。転売する先は馬を愛好する人、または食肉業者です。カメラは売買の生々しい瞬間をとらえます。
そして多村氏はこの穂別で祭典ばん馬を主催しています。穂別の祭典ばん馬には北海道各地から多くの人が、皆それぞれに馬を持ち、大会がある度に馬運車で何時間もかけて訪れます。彼らの馬に対する熱い想いは時代を経た今も変わらず、その表情は真剣そのもので、開拓以来変わらず続いている馬と人間の営みが息づいていることが伺えます。